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社 会 |
現代日本の形成過程 |
現代日本の形成過程
各巻セット 30,000円+税 |
真の国際協調時代を迎え、現在、日本の近・現代史を検証する。
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タイトル |
価格 |
対象学年・監修者・出演者 |
内 容 |
(14)昭和天皇と外交 〈丸善出版作品〉 (DVD)SMA134D |
カラー |
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大正天皇の第一男子裕仁親王は、1916年皇太子となった。当時、世界は第一次世界大戦のさなかにあり、日本もこの対戦で日清・日露戦争で得た大国の地位をさらに高めようとしていた。次の天皇となる皇太子には、国際情勢に対する知識が不可欠であった。原敬首相は、皇太子の外遊を計画し、山縣有朋、松方正義、西園寺公望の3元老もこの計画を支持した。['94] |
(15)日米首脳会談 〈丸善出版作品〉 (DVD)SMA135D |
カラー |
企画・構成: |
日米首相外交の先駆けとなったのは、明治維新後間もない1971年に派遣された大型使節団岩倉ミッションであった。岩倉具視等、明治政府の最高首脳部が、欧米視察の最初にアメリカを訪問し、大統領とも会見したのである。アメリカからは1879年、グラント元大統領が来日している。かつて岩倉使節団を歓待したグラントは、近代日本のいわば最初の国賓として来日し、明治天皇とも会談した。['94] |
(16)大使たちの日米関係
〈丸善出版作品〉 |
カラー |
企画・構成: |
日米関係の中で、最初の外交官として日本に赴任したのはタウンゼント・ハリスであった。ハリスは1856年、駐日総領事として着任し、59年には初代全権公使となった。一方、初代中米日本公使は森有礼であった。幕末に薩摩からイギリスに派遣された留学生であった森は、その才能を買われ、1870年、23歳の若さで公使に起用された。1871年、森は米国にて岩倉使節団を迎えることになる。['94] |
(17)沖縄と安保
〈丸善出版作品〉 |
カラー |
企画・構成: 北岡伸一(立教大学法学部教授) |
沖縄本島が琉球王国の下に統一されたのは15世紀のことといわれている。琉球王国は明国に朝貢を送り、冊封を受けていた。その後1609年、薩摩の島津氏は兵を起こし、琉球を支配下に置いた。しかし、島津氏は、朝貢貿易の利益を維持するため、明国に対しては琉球が薩摩の支配下にあることを隠し続けた。琉球はまた、西太平洋の進出を目指す国々にとっても重要な位置にあったのである。['94] |
(18)日本とソ連
〈丸善出版作品〉 |
カラー |
企画・構成: 北岡伸一(立教大学法学部教授) |
1855年、日本とロシアとの間で日露和親条約が結ばれた。この時、ロシアとの国境を千島列島においては択捉島とウルップ島との間とし、樺太については、特に国境線を定めなかった。明治政府にとって樺太の帰属問題は外交上の大きな課題の一つであったが、1875年、榎本武揚により千島樺太交換条約が結ばれ、日本が樺太をロシアに譲る代わりに千島列島すべてを領収することで決着がつけられた。['94] |
(19)日本と東南アジア
〈丸善出版作品〉 |
カラー |
企画・構成: 北岡伸一(立教大学法学部教授) |
20世紀初頭、東南アジアは米や砂糖・麻・ゴムなどを供給する植民地として西欧列強の支配下にあった。当時の日本は、日清戦争後、台湾を領有し、初の植民地統治に乗り出したばかりであった。ところが、1904年、日露戦争で大国ロシアに勝利したことが小さな島国への評価を一変させることになる。同じアジアの中で独立を保って近代化を推進する日本に東南アジアの関心は集中した。['94] |
(20)日本と中国
〈丸善出版作品〉 |
カラー |
企画・構成: 北岡伸一(立教大学法学部教授) |
鎖国政策をとっていた江戸時代にも、中国との貿易は頻繁に行われていた。19世紀に入ると、両国はそれぞれ西欧列強のアジア進出に対応を迫られることになる。中国では、1840年代から50年代にかけて、アヘン戦争、太平天国の乱、アロー号事件と戦乱が打ち続き、清国は弱体化していった。一方日本は、1853年の黒船来航の衝撃による混乱を短期間で収拾し、近代化への道を歩み始めた。['94] |
(21)台湾
〈丸善出版作品〉 |
カラー |
企画・構成: 北岡伸一(立教大学法学部教授) |
日本が台湾に関わりを持つようになったのは、1874年の台湾出兵に始まる。これは、1871年に台湾の海岸に漂着した琉球漁民54名が現地住民に殺害されたため、西郷従道を総帥とする日本軍が出兵した事件であった。その後21年を経た1895年、日清戦争で清国に勝利した日本は、下関講和会議において台湾を獲得。早速台北に台湾総督府を置き、初めての植民地統治を開始した。['94] |
(22)朝鮮
〈丸善出版作品〉 |
カラー |
企画・構成: 北岡伸一(立教大学法学部教授) |
19世紀中頃、日本と朝鮮両国はともに開国を迫る西欧の脅威にさらされるが、その対応は全く対照的であった。日本は開国し、明治維新という国内改革を行い、西欧の制度や文化を積極的に受け入れた。一方朝鮮は強硬な鎖国政策で対抗した。近代国家への道を歩み始めた日本は、朝鮮へ開国を迫ったがこれを拒絶されると、国内では朝鮮への軍事進出を主張する征韓論が高まった。['94] |
(23)満州
〈丸善出版作品〉 |
カラー |
企画・構成: 北岡伸一(立教大学法学部教授) |
中国東北部、この地域はかつて日本では、「満州」、英語圏では「マンチューリア」と呼ばれていた。この満州に日本が深く関わるようになったのは日露戦争以後のことであるが、それ以前はロシアが鉄道の建設を足がかりに勢力を誇っていた。1900年、外国勢力の排除を叫ぶ義和団事件が起こると、ロシアは満州の治安を維持するという名目で10万を越える大軍を派遣し、事実上満州を占領するに至った。['94] |
(24)海軍
〈丸善出版作品〉 |
カラー |
企画・構成: 北岡伸一(立教大学法学部教授) |
1853年、ペリー提督率いるアメリカ艦隊の浦賀来航は日本に大きな衝撃を与えた。海軍力の必要性を痛感した幕府は、早速通商関係を維持していたオランダに協力を依頼し、軍艦を入手、長崎に海軍伝習所を開設した。勝海舟をはじめ、幕府・諸藩から参集した百数十名がオランダ人の指導で、蒸気船の操船技術の修得に励み、その技術は後に、咸臨丸の太平洋横断や函館戦争での操船に生かされる。['94] |
(25)自動車と日本人
〈丸善出版作品〉 |
カラー |
企画・構成: 北岡伸一(立教大学法学部教授) |
自動車の普及が始まるのは大正時代のことである。第一次世界大戦以降、自動車は戦争の中で重要な役割を果たすようになる。日本陸軍も1918年には自動車部隊を設立し、シベリア出兵ではトラックを使用した。関東大震災後の復旧作業のため大量の自動車が投入されたが、これを供給したのは、ヘンリー・フォードの大量生産方式によって自動車王国となっていたアメリカであった。['94] |
(26)戦争と日本人
〈丸善出版作品〉 |
カラー |
企画・構成: 北岡伸一(立教大学法学部教授) |
1873年徴兵令が発布され、東京・大阪・熊本など全国6カ所に鎮台が設置された。同年、征韓論を契機に明治政府は分裂し、これ以後、政府に不満を持つ士族の反乱が相次ぐが、いずれも政府軍に鎮圧された。そして、1877年、最強の薩摩武士団が立ち上がった西南戦争も、政府軍の勝利に終わった。武士の時代は終わったのである。['94] |
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